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中国版神々の指紋 始皇帝宮殿群と星座の位置は同じだった
首页 > 中国ふしぎ実話集 作者:德田 2018年9月29日 浏览:215 文字サイズ: 评论:暂无评论

中国の神々の指紋
始皇帝の宮殿群と星座の位置は同じだった

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エジプトの三大ピラミッドの配置は、オリオン星座のそれぞれの星の位置を模して建てられているという説がある。
この説の真偽については、わたしは専門外なので判断できない。だが、古代農業社会では、農業と天空の観測が、密接に関連していたのは、よく知られていることだ。国王は、農業の豊作を願い、国家と民衆の幸福を祈る。だから、その祭祀(さいし)の主宰者として、『天空の星座をまねして、巨大な建築物をならべてみよう』と考えてもおかしくはない。
そう思って、史料を探したところ、中国でもっとも有名な書物である『史記』に、はっきりと記されているではないか。『史記』は、その内容が、今までの考古学的な発掘内容と矛盾せず、また考証学的な論証もされているので、『史記』の記載内容は、いちおう史実であるとされている。
そして、『史記・始皇帝本紀』によれば、秦の始皇帝が、咸陽(かんよう)宮、阿房
(あぼう)宮などの宮殿群や河川を、北極星などの星座や銀河に見立てて配置したと記してある。
始皇帝は紀元前二二一年に天下を統一すると、翌年に長信宮を渭水
(いすい)の南に建てることにした。完成すると長信宮を極廟と改名した。そして、天極(北極星)にかたちどり、極廟から驪山まで道路をつくった。また道の両側に塀がある皇帝専用の甬道(ようどう)を咸陽(かんよう)からつなげた。
さらに、始皇帝は本格的に建築をはじめる。
前二一二年には、始皇帝は、渭水
(いすい)の南の上林御苑に、朝宮(朝賀に用いる正殿)を建てることにした。
まず先に前殿である阿房
(あぼう)宮を建てた。その規模は、東西五百歩(639メートル)、南北五十丈(115.5メートル)あり、殿上には一万人が座ることができ、殿下には五丈(11.55メートル)の大旗をたてることができたという。周囲には閣道(楼と楼の二階の間につなげた廊下)をはしらせ、殿下からは、直接、南の終南山(秦嶺山脈)の頂上まで行けるようにした。山頂には闕(けつ。正式な宮門。下は門、上は閣となっている)を建てた。阿房(あぼう)宮の北は複道(上下二層の廊下)をつくり渭水(いすい)をわたって、咸陽(かんよう)につなげたと書かれている。
それは北極星
(阿房宮)から閣道(複道、閣道)をとおり、銀河(渭水)をわたり、営室(咸陽宮)につらなりいたるような形と同じにしたものであったという。

  表にまとめると下記のようになる。


宮殿、地名と星座の対照表

宮殿、地名星座名
咸陽宮営室
渭水銀河(天漢)
閣道閣道
阿房宮北極星(天極)

 

それを地図にすると、下のようになる。

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次の図は、二十八宿図である。古代中国人は、この世界は天空にいる天帝が支配するものとかんがえていた。天体の運行は、この世界を象徴するものとみなし、天体観測には、たいへんな関心をもっていた。そこで二十八の星座つまり二十八宿図が成立した。
秦の宮殿群と地形を、二十八宿図と比較すると、たしかに天空の星座と同じような位置に配置してある。下図の二十八宿図にある、円中央付近の北極と上の営室の中間には閣道があり、横には銀河が流れている。営室は、『史記』の言い方で、あとからできた二十八宿では壁と室のふたつに分かれた。
下図の、ひらがな、カタカナは西洋の十二星座の一部。

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二十八宿名

東方蒼龍七宿1角宿、2亢(こう)宿、3氐(てい)宿、4房宿、 5心宿、6尾宿、7箕宿
北方玄武七宿8斗宿、9牛宿、10女宿、11虚宿、12危宿、13室宿、14壁宿
西方白虎七宿15奎宿、16婁宿、17胃宿、18昴宿、 19畢宿、20觜(し)宿、21参宿
南方朱雀七宿22井宿、23鬼宿、24柳宿、25星宿、 26張宿、27翼宿、28軫宿
中央天極(北極星)

 

『史記・天官書』では、二十八宿のうちの壁宿と室宿をひとつとして考え、営室といった。つまり、二十七宿説が西漢(前漢)時代にはあったらしい。長沙馬王堆三号漢墓から出土した帛書 『五星占』の金星位置表にも壁宿と室宿をひとつにしてある。また、『詩経(よう)風』によれば、営室が中天に来れば、宮殿を営造してよろしいとの風習があったという。 ちなみに、秦、西漢時代の北極星周辺の星座は下のように考えられていた。天極星は北極星。

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こうして、始皇帝は、巨大な建築群をつくりつづけた。阿房(あぼう)宮の建設などには七十万人もの去勢者と徒刑者を動員した。かれらのほとんどは社会的な犯罪者ではない。ごく普通の人びとが、秦の酷烈な法によって、刑罰を科せられたにすぎない。
さらに関中
(函谷関から西、秦嶺山脈から北)には三百ヶ所の宮殿、関外(函谷関から東)には四百ヶ所の宮殿を造営した。そして東海郡(江蘇省)(く)県(連雲港市の西南)の海辺に石碑を立て、秦帝国の東方の宮門としたという。
つまり、始皇帝は、満天の星のように、全国各地に宮殿を建て、そして同時に国土をそのまま巨大な宮城に見立てたのかもしれない。
また、始皇帝は、戦国諸侯を滅ぼすたびに、その宮殿を模して、咸陽
(かんよう)の北の山麓に建てていった。そして、諸侯の後宮からつれてきた美女を宮殿にみたしたのだ。
天空をまねするのは、国と民衆の幸福のためであらねばならなかったのに、始皇帝はみずからの長寿と快楽のために、天空を模した。
天の怒りは激しかった。
二年後の前二一〇年に始皇帝が死去すると、すぐさま各地に叛乱の火の手があがり、秦帝国はたちまち瓦解していったのである。

参考資料:二十八宿図は、『中国古代天文文物論集』 従宣化遼墓的星図論二十八宿和黄道十二宮(夏 著)(文物出版社)
史記・天官書の北極星は、『中国恒星観測史』 第三章 秦、漢時期星象観測的発展(学林出版社。潘 著)

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