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北京大爆発2万人死亡、家屋数万戸倒壊! その原因は?
首页 > 中国ふしぎ実話集 作者:德田 2018年10月22日 浏览:223 文字サイズ: 评论:暂无评论

北京大爆発

Beijing Explosion by Meteorite?

20,000 Dead, Scores of thousands of houses collapsed

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 明末の歴史学者の計六奇が著した《明季北略》には、ふしぎな記述がある。

啓六年(1626)五月六日、巳の刻(午前九~十一時)、晴れた青空に、突然ゴーという大音響が東北からしだいに迫ったかとおもうと、とつぜん、北京城の西南角に灰色のキノコ雲が湧きおこり、家屋が揺れ動いた。一瞬ののち、ドドーンと大震動がおき、あたかも天は裂け、地が崩れるごとく、空は夜のようにまっ暗になった。そして何万戸もの家屋が倒壊した。
損害の範囲は、東は順城門大通りから、北は刑部街まで、長さ三、四里、周囲十二里におよび、家屋数万戸が粉砕され、二万人が死亡した。
とくに(直撃された)王恭廠一帯の損害は甚大で、おびただしい死体がおり重なり、臭気が鼻をついた。空に満ちるほど高く舞いあがったガレキは、大通り、屋根、庭などいたるところにバラバラと落ちてきた。大音響は、南は河西務から、東は通州から、北は密雲、昌平まで聞こえた(いずれも数十キロ先)。京城の家屋はすべて震動し、人びとは狂奔し、大混乱におちいった。空を見あげると、乱れた糸のような雲、、五色のさまざまな雲、黒いキノコ雲が、沸きあがったかとおもうと、たちまち消え去った。

いったいなにが起きたのだろう?
明末の天啓皇帝の宦官だった劉若愚は、目撃した事実を《酌中志》に、つぎのように記述している。

盔甲廠は北京城の東南の隅にあり、鉄かぶと、銃砲、弓矢、火薬を製造していた兵器工場である。
明朝末期の万暦年間に、ここの火薬庫が突然に爆発した。さらに、万暦二十三(1595)年九月にも突然、爆発し、キノコ雲のような煙が噴きあがった。京営領薬把総(首都警備軍火薬担当の下級士官)ら九人、兵士六十三人が焼死、重傷者は六十一人。倒壊家屋は若干棟。しらべてみると計、数百人が焼死していた。工部(今の建設省にあたる)はこの工廠に銀六千両を費やして再建した。また、あらたに北京城の西南の隅に、四千両を費やして王恭廠という兵器工場を建てた。
(今回の事件について)天啓六年(1626)五月六日、辰の刻に、突然、王恭廠あたりで、大震動がおこり、たちまち大樹二十本が根っこから抜かれてなぎ倒された。また、巨大な穴ができ、深さ数丈もあった。キノコ雲のような煙雲が空に立ち上がり、東北にかけて沸騰した。西安門から一帯はみな麩か米粒くらいの鉄片がばらばらと空から落ちてきた。片づけるとき、みな火薬の臭いがした。(中略)死者は姓名が判明した者は数千人、圧死あるいは姓名がわからない者は千人以上。およそ死体はほとんど完全なものは少なく、男女にかかわらずことごとく裸体で、生き残った者も衣服や冠が剥ぎ取られていた。(以下略)

劉若愚は、天啓以前にも火薬が爆発したことがあるので、今回も火薬の爆発ではないかと考えたようだ。だが、それにしては破壊の規模が大きすぎる。
計六奇は《明季北略》で、空からなにかが落ちてきたと考えたようである。いったい、それはなにか?空から落ちてくるというと、当時は隕石しかないだろう。
 たとえば、1908年6月30日、ソ連シベリアの荒野ツングースカ(Tunguska)で大爆発が発生した。数千平方キロにわたって森林がなぎ倒され、大穴があいた。これは後の調査で隕石の落下だとわかった。その隕石は推定直径約100メートルだった。
 隕石は毎日のように地球に落下してきている。その頻度は大きさによって異なり、年間では100グラムほどのものは約1万9千個ほど、1キログラムほどのものは約4千個、10キログラムのものは約800個ほどであると推定されている。ツングースカのような大きな隕石になると、千年に一回である。

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Credit:Pirates group of Galena High School

 

 ここで、ふたたび、《明季北略》、《酌中志》、さらに《碧血録》の記録をあわせて見てみよう。

後宰門にある火神の廟は、たいへん豪壮な建物だった。六日早朝、門を見張る宦官が突然、音楽の音を聞いた。一回はざっと演奏され、もう一回は細かく演奏され、それを三度くり替えした。
内宦官たちは驚き、あちこちを探してみると、その音は廟の中で出ていた。殿門の扉をおして入ったとたん、たちまち、赤い球のような物が、殿中から転がり出て、空中に舞い上がったかとおもうと、突然、東方から大音響が聞こえた。

 屯院の何廷枢の邸宅はすべて土中に埋もれ、使用人たちはみな死んでしまった。役人たちは鍬(クワ)などを持って、瓦礫のうえに立ち、叫んだ。
「下に誰かいれば、返事してくれ!」
すぐに声がした。
「たすけてえ!たすけてえ!」
役人たちは尋ねた。
「あんたはだれだ?」
「おめかけさんよ」
役人は上司の愛妾だとわかり、急いで救い出した。愛妾は身に一寸の布きれも被われていなかった。役人は、上着を脱いで着せてやった。彼女は腰巻きもなく、ロバに乗って去ったが、そのまま行方知れずとなった。

 お上(天啓帝)はこのとき乾清宮にて食事をしていた。宮殿が激しくゆれると、あわてて交泰殿に逃げた。宦官たちは間に合わず、お側の者がひとりだけお上を支えるようにして逃げた。建極殿の瓦が落ち、この宦官は頭が砕けて死んでしまった。乾清宮の御座、机などはみな倒れた。

 紹興の周という吏目(州の刑獄補佐官)の弟の周季宇は、兄を頼って北京に来ていた。翌日、菜市口で知りあいの六人と出会った。周季宇は頭を下げてあいさつしたが、あいさつがおわらないうちに頭だけどこかへ吹っ飛んでしまった。六人はケガはなかった。
探してみると、周季宇の頭は塀に一寸ばかりめり込み、両眼は門の柱にべったり粘りついてまだ動いていた。眉毛もいっしょにくっついていた。

 ある官吏の家族は、空が暗くなったとたんに地面が揺れ動き、机や椅子が倒れ、妻や妾たちがたがいにもみくちゃになった。しばらくして、空がようやく明るくなると、頭の髪はぼさぼさ、泥顔、裸足で、まるで重病人か幽霊のようであった。

 宮殿を建てていた工事人夫たちは、激震のため屋根からばらばらと墜落した。約二千人が肉のかたまりと化した。

落ちてくる隕石を目撃したお役人や庶民もいる。だが、隕石を神や僧侶だと解釈された。

北城の都察院は、この日、役所に出勤途中、馬上からふと空を見上げると、赤い冠、赤い髪をした神人が、剣を持って麒麟(きりん)に乗り、すぐ頭上にいた。都察院はひどく驚き、落馬して額を傷つけ、おお騒ぎしている間に、突然東城から激震がおきた。

 六日五鼓の時刻、東城に赤脚の僧侶が、街を走って大声で叫んだ。
「早く、早く行け!」

 負傷した男性も女性も皆裸で、一寸の布きれも身につけていない。どうしてか分からない。ある使用人は、大音響がおきると、帽子、衣服、靴は一瞬の間にすべて吹き飛んでしまった。

 項という者は、片ほうの腿を負傷して地面に倒れた。倒れたまま、まわりを見まわしていると、婦人たちがすっぱだかで通り過ぎていく。なにもないので陰部だけは瓦でかくしている女性や、纏足(てんそく)をしばる包帯で陰部をおおっていたり、ふとんの切れ端をかぶったり、シーツをひきずっている女性もいた。しばらくの間に、そうした婦人が数十人も通り過ぎていった。項は痛みをこらえながらも、笑ってしまった。

 ある大臣の夫人は、驚いて腰巻きだけで町中へ逃げ出そうとした。大臣は屋敷からあわてて走り出て、ようやく連れもどしたのだった。

この大爆発のふしぎな予兆も記載されている。

五月初め、山東済南知府が城隍廟にお参りにいった。境内に入ったとたん、官吏もお供たちもみな意識を失ってしまった。
ある下働きの妻が夫に会いに来たところ、先夫を見た。だが、先夫は何年も前に死んでしまったはずなのに、まだ城隍廟の門番をしていた。先夫は言った。
「廟のなかには入ってはならんぞ。天から下された城隍廟がここに建てられるからな」
そのため、みなは助かったのだ。

 四月二十七日午後、雲が東北の空の角にあらわれ、形は旗のようでもあり、偃月刀のようでもあった。天空を切り裂くように長く、光彩ははじめ白色で、それから赤紫に変わった。しばらくたって、空から消えた。五月三日、また東北の方角にあらわれた。形は糸のようで、色は赤かった。四日にもまたあらわれ、形は如意のようで、色は黒かった。

 長安街には空中から、人の頭が落ちてきた。あるいは眉毛と鼻が落ちたり、あるいは額とつながっていたり、つぎつぎと人体の一部が落ちてきた。大きな樹木は密雲(北京東北数十キロ)まで飛んだ。石駙馬街には大石の獅子があったが、重さは五千斤(明一斤は600グラム弱。よって約3トン)もあり、数百人がこれを移そうとしたが動かなかったことがある。だが、空から順城門外まで吹き飛んだのだ。
円弘寺街を婦人が轎に乗っていた。大音響が轟くと、轎の屋根が吹っ飛び、婦人の衣服も飾り物もすべて持っていかれた。婦人は赤裸のまま轎に坐っていたが、なぜか無傷のままだった。

衣服はどこへ飛んでいったのだろう。その記述がある。

激震のあと、おびただしい数の衣服が西山(北京西十数キロ)までひらひらと漂い、多くは木の梢にひっかかっていると報告があった。昌平州(北京北方三十数キロ)の教練場にて衣服が山のように積みあがっていた。さらに、首飾り、銀銭、器皿など、ないものはなかった。

 嘉興の項という家では塀はくずれなかったが、家屋の倒壊で子供一人が圧死。駿馬一頭が天空に舞い上がって行方知れずとなった。
慰問に来た客が下僕に尋ねた。
「項さんの家は損害はなかったかね」
下僕は言った。
「お、お子が一人、馬、馬が一頭」
下僕はショックのあまりまだ口がきけなかったのだ。

 王という者が寓臨池にいたが、なぜかふと席を離れたところ、ドーンという音とともに今まで坐っていた椅子や机が裂けた。鉄のかたまり一個を見つけ、計ってみると三斤四両(二キログラム弱)あった。

これは隕鉄だろう。かわいそうなことに幼い生徒たちも犠牲になった。

粤西会館前の十字路では、孰教師が童子三十二人に野外授業をしていたが、爆発音とともに教師も生徒も跡かたもなく消えてしまった。

 宣府新推総兵が馬に乗り、ある家を訪問するため、王恭廠西の元宏寺街まで出かけた。爆発音がおきると、人も馬も、そして使用人七人も跡形もなく吹き飛んでいた。
王恭廠南の承恩寺街を八人担ぎの女轎が通り過ぎた。大激震のあとには、壊れた轎が道のまん中に残っているだけで、女客も担ぎ手もみんな消えていた。
德勝門外には人の手足や頭がバラバラと落ちてきたが、他所よりもとくに多かった。

この北京大爆発は、死者二万人、倒壊家屋数万戸という大きな被害を出した。その被害規模からいっても、記録の表現のしかたからいっても、火薬の爆発のみではない。おそらく、数メートルか十数メートルかはわからないが、巨大な隕石が落ちてきて、火薬庫もろとも爆発したせいだと考えるのが妥当であろう。
 この大災害は、正史の《明史》には記されてはいない。明王朝は、この災害からしばらくして、官僚の腐敗と満州族の侵入で大混乱におちいり、ついに滅亡する。ちょうど王朝の交代期で、記録どころではなかったようだ。

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Credit:Pirates group of Galena High School (www.galenalink.com/~pirates/TUNGUSKA EXPLOSION.htm)

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