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閲微草堂筆記 紀暁嵐 1
首页 > 中国ふしぎ実話集 作者:德田 2018年11月4日 浏览:156 文字サイズ: 评论:暂无评论

中国不思議と恐怖・閲美草堂筆記
(えつびそうどうひっき)

紀暁嵐(き・ぎょうらん。名は昀)・著 徳田隆・訳

本書の著者紹介
著者の紀暁嵐(字。名は昀)は、十八世紀半ば、乾隆(けんりゅう)年間の進士で、清朝中期に活躍しました。乾隆皇帝の勅命により四庫全書を編纂した、とうじの最高の知識人です。
といっても、かなりヒョウキンな人であったらしいです。
例えば、紀暁嵐がある政争にまきこまれ、ウルムチに流刑となりました。ウルムチは遥か遠い西域にあり、生きて再び会えるかどうかわかりません。親戚や友人たちが悲しみにくれながら、一同うちそろって、北京城外まで見送りに来ました。年取って片目が見えない叔父も泣きながら別れを述べました。
すると、紀暁嵐は、『おじさんは片目だから、他の人よりも涙は半分だけですむね』とよけいなことを言って、皆からヒンシュクをかってしまいました。

本書『閲微草堂筆記』は、紀暁嵐の晩年に、本人や、友人、門人、同僚、先輩など周囲の人びとが経験した、奇妙な出来事、驚くような話しを聞き書きしたものです。
門人が出版するや、その面白さにたちまち好評を博し、当時、流行していた『紅楼夢』、『聊齋志異』と並び称されるようになりました。
紀暁嵐はウルムチに生活していたこともあって、西域の項目も多く記されています。全部で1200項目ほどありますが、日本では抄訳が出版されていますが、全訳はありません。
人肉食の記述もありますが、それは別の項目で述べることにしましょう。

ちなみに、筆記というのは、筆記小説の略称ですが、いわゆる現代のノベルではなく、日記、覚え書き、ノート、ドキュメントなどの意味です。つまり、実際の出来事、少なくとも本当にあったと思いこんでいる出来事を記したものです。

四庫全書:清の乾隆帝の命により全国から古今のすべての書籍を集めた、きわめて厖大な叢書。全国に四つの帝立図書館を設けて蔵置した。一七七二年から十年間かけて、紀暁嵐を総責任者として校正、写本し、同じものを四セット作り、宮中に文淵閣、円明園に文源閣、奉天に文溯閣、熱河に文津閣をそれぞれ設けて置いた。後に三庫を増した。


1.美人画の怪

taigyoku(日本では暴走族というと、爆音を立てて疾走するのが普通です。中国・台湾にも暴走族はいますが、まったく目立ちません。一般のスクーターやオートバイ自体がひどく喧しいからです。騒音の許容度は日本よりも遥かに高い理由が、この話しを読むと理解できるのです)

 田白岩の話しである。士人の徐乙が旅の途中、ある僧坊に寄宿することにした。若い僧侶が静かな部屋に案内してくれた。部屋の壁には美人画の掛け軸が懸かっており、美女の眉目姿態は生きるが如く、衣服の裾や袖は風に吹かれたように舞い上がっている。
 徐乙は若い僧侶に尋ねた。
『この画は修行の妨げにはならないのでしょうか?』
 若い僧侶は言った。
『これは天女が散華している図で、堵芬という有名な女流画家が描いたものです。寺には百年前からあると聞いております。拙僧はまだ仔細に眺めたことはございませんが』
 その晩、燈火の下で注視していると、画中の天女が一二寸盛り上がったように見えた。
 徐乙は言った。
『これは西洋世界の画ではないか。わしの精気が吸い取られていくようだ。なにが堵芬の画なものか』
 すると画の中から突然、声が聞こえた。
『わたくし、降りますから驚かれませぬように』
 徐乙は剛毅な性格だったので、声を励まして叫んだ。
『妖怪めが、わしをたぶらかしに来たな!』
 急いで掛け軸を取り外し、燈火にくべようとした。掛け軸の中から泣き声がして、
『わたくしの修行はもうじき成ろうとしております。いったん火にかかれば、形は消え、精神は散じます。今までの苦労は流れる水の如く無為に帰してしまいます。どうか哀れと思し召し、お赦しくださいませ』
 その騒ぎを聞いて、僧侶たちがみな見に来た。徐乙はその経緯を説明した。
 住職は言った。
『弟子がこの部屋に住んでいたが、病を得て死んだのは、汝のせいであったのか?』
 画はすぐには答えず、しばらくしてから、
『仏門は広大と聞いております。和尚さま、どうかお慈悲をもってお救いください』
 はじめに部屋に案内してくれた若い僧侶が思わず駆けより、掛け軸を奪って開いた。すると美しい天女が現れ、お辞儀をした(両手を右腰に当てながら両膝を曲げる女性の礼)。
 徐乙は怒り、掛け軸を奪い返して、炉に投げ入れた。すると火焔と黒煙があがり、激しい悲鳴とともに、何人もの僧侶の姿が苦しみながら現れ、そして消えていった。天女の姿もいつのまにか消え去り、部屋には血腥い気が満ちていた。明らかに殺されたのは、一人だけではなかったのだ。その証拠に、炉には十余体の焼けた骸骨が残っていた。
 それでも夜になると、シクシクと泣き声が天井の梁のあたりから聞こえてくる。徐乙は言った。
『妖気はまだ尽きてないようだ。恐らくしばらくすればまた集まって形を成すであろう。陰邪を破るものはただ陽剛のみだ』
 そこで、爆竹の束を十余本買い求め、一本に結び、火を点けた。猛烈な爆音があたりをはらい、窓も扉もみな震えた。それからはついに静寂となった。


2.花の妖精

(イギリスには花の妖精がいましたが、中国にもいました)

友人の鄭慎人の話しである。庭の花が満開となったある日、婆やが外で驚きの声をあげているのが聞こえた。
窓を開けて見ると、婆やは桂の樹のこずえを指さして震えている。こずえには、掌(てのひら)ほどの大きな蝶が止まっていて、蝶の背なかには、親指くらいの小さな少女が赤い衣服を着て坐っていた。蝶はしばらくヒラヒラと空中を漂ってから、土塀を越えて飛んでいった。するとこんどは隣家の子供や娘たちが大騒ぎする声が聞こえた。これは妖怪なのだろうか、それともいわゆる花の精なのだろうか。
この話しは旧友の劉景南の家でしていたのだが、劉景南は口を挟んで、
「娘たちが遊んでいて、草花を編み、小人にして蝶の背にくくりつけ、空に放ったのではないかなあ」
 鄭慎人は言った。
「ほんとうにこの眼で妖精を見たんだぞ。妖精は馬に乗るように蝶を操っていた。回りを見回したりするそのさまは、間違いなく生き物で、決して人形ではないよ」
それが真実であるかどうかは今となっては確認はできない。


3.狐の酒盛り

 張鉉耳先生の邸宅で、ある晩、婢女が一人いなくなった。どこかへ逃げ出したのだろうと思っていたら、翌日、婢女は裏庭の薪小屋の中で酔っぱらったまま寝ていた。薪小屋には外から鍵がかかっていたのに、どうやって中に入ったのか判らなかった。髪はバラバラに解け、顔はドロドロに汚れていた。昼過ぎになってようやく目が覚めた。
婢女が話すところによると、
『昨夜、裏庭で喜んだり笑ったりする声が聞こえました。狐だろうと思ったんですが、たびたび遊んでいるのは知っていたので恐ろしくはなく、門扉の隙間から中を覗いてみました。すると、床に酒や肴をたくさん並べ、若者が数人集まって酒盛りを開いていました。すぐに見つかってしまい、若者は飛び上がってわたしを抱きかかえて壁の中に入りました。恍惚として眠っているような夢を見ているような感じですが、声をあげようとしても出ません。とうとう無理やり坐らせられました。酒も肴もおいしくて、そのうえ一気飲みもさせられ、とうとう酔っぱらって、いつ寝たのか、いつ若者たちがそこを出たのかもわかりません』
張先生はもともと剛毅な人だったので、みずから裏庭の狐の住処に行き、叱責した。
『いっしょに長年住んでいて、毎日、薪や柴を取りに行く以外に、人間は狐と関わりがなかった。どうして突然、暗黙の礼儀を越え、良家の婢女を娼妓のようにして酒を飲ませたのだ?子弟が狂い騒いでいるのに、父兄はどこにいたのか?家長として恥ずかしくないのかね?』
夜半、窓の外から声が聞こえた。
『わしの息子たちが放蕩をやらかしたので、笞打ってやった。だが、一つわかってほしいことがある。あの婢女は自分から扉を開けて入ってきたんだ。ふざけながら肉を欲しがったのだ。息子たちは決して無理やり引っ張り込んだわけではない。それに、据え膳咥(くわ)ぬは男の恥とか、魚心あれば水心ありというのは、人間だけではない。だからわしの息子たちも好意を抱いたのだ。さもなければ、美人でもない婢女にどうして手を出すことがあろうか。日頃、注意しなかった誹(そし)りは、わしと先生それぞれにあるんだ。そこのところをよく考えてくれ』
先生は言った。
『あんたが息子たちを笞打ったのだから、わしも婢女を痛打しなくてはな』
狐は嗤(わら)って言った。
『適齢期をすぎても配偶者を選んでやらなければ、つい、けしからんことをやらかすものだ。罪は婢女ひとりにあるのかね?』
先生は言い返そうと思ったが、言葉が見つからなかった。翌日、仲人業の婆さんを呼び、年かさの婢女たち数人をみな嫁(かたず)けてやった。(婢女は借金のかたに、二十年、三十年の年季奉公の契約があるので、かってに結婚できない)


4.幽霊


妖怪というのは、往々にして人が起こすものである。李雲挙の話しによると、彼の下僕はひどく臆病だった。そこで、李雲挙はその下僕を驚かそうと思い、もう一人の下僕の崔某とこっそり約束した。
『わたしはあの臆病な下僕と月光の下で涼むことにする。わたしが幽霊だと叫んだら、おまえはすぐさま窓から手を出してくれ』
崔某は、墨で両手を真っ黒に塗り、部屋に隠れた。そうして夜になると、李雲挙は叫んだ。窓から手が突き出てあたりを探っている。その手は箕(みの)のように巨大で、指は臼の杵(きね)のように太い。家中の者が集まって驚いた。下僕たちは叫んだ。
『これはほんとうの幽霊だ!』
タイマツを持って部屋になだれ込むと、下僕の崔某が隅で昏倒している。手当をしていたら、そのうちに目が覚めて言った。
『暗闇になにものかが現れて、おれに生臭い息を吹きかけた。それですぐに気を失ってしまったんだ』
李雲挙がここまでわたしに話したとき、族叔(同族で上の世代の男。年齢とは関係ない)の紀務庵が口を挟んで、言った。

わたしの友人二人が仏寺に寄宿し勉強していた(昔は科挙試験などの勉強のため、受験者はよく静かな仏寺で勉強した)。一人がもう一人を驚かそうと、燈火の下で首吊りの幽霊のふりをして前に出た。それを見た友人は、ひどく恐怖にかられ気絶しそうになった。そこでもう一人の友人は急いで扶け起こし、
『ぼくだよ、ぼくが幽霊のふりをしたんだよ』
気絶しそうになった友人は言った。
『もとより君だと知っているよ。だが君の背後にいるのはだれなんだ?』
後ろを振り返ると、ほんとうの首吊りの幽霊が浮かんでいた。


5.先妻の霊

ご先祖の寵予公の先妻、陳太夫人(太夫人は大奥様の意味)は若くして亡くなった。
後添えの張氏が嫁いだばかりのある日、独りで室内に坐っていた。すると、部屋の入り口の簾布をあげて、若い女性が入り、長椅子に腰かけた。新婦の張氏は、その若い女性は、夫の姉妹の娘か、あるいは夫の妹の一人かと思い、挨拶をした(中国は大家族制度で同居している)。
若い女性は、上は黄色の衫(ブラウス)、下は淡緑の裙(スカート)をつけて、大家の令嬢のようであった。そして、こまごまとした家政(つまり田畑・金銭・財産の管理、各種行事、使用人の管理、子弟の教育など)、婢女乳母下男などの良いところ悪いところを、詳しく話してくれた。しばらくして、婢女がお茶を運んできたので、入れ替わりに出ていった。このように半年ほど折り折りに家のことや、先妻の幼子たちの育てかたを教えてくれたので、新婦はすべてとどこおりなく行うことができた。
そのうちに、若い女性はいつの日からかいなくなった。そこで、新婦の張氏は姑や夫に、これこれの衣服を着た若い女性はどこに行ったかと尋ねた。すると、皆は、その衣服が先妻陳氏の死に装束だったことに気づいた。ふつう、死んだ先妻が嫉妬のあまりこの世に出てくると言う話しはよく聞くものだが、陳氏は、新婦がうまく家政をさばくことができるか心配だったのだろう。その話しを聞いて皆は感じ入ったのであった。
また、先妻の子供たちも、母親があの世から案じてくれていることがわかったので、みなよく勉学に励み、進士試験に合格し、官吏となって良い評判をえたのだった。


6.下心


(中国の強盗は、盗む金品がないと縁起が悪いので、被害者を刺して赤い血を出します。赤は縁起がよい慶事の意味です。本編は似たような出来事だったので採録しました)

 黄村から豊宜門まで、およそ四十里。この一帯は水はけが悪く、ひとたび雨が降ると道路に溢れ、ひどい泥濘になって車馬も人も渋滞してしまう。
李秀という若者が、空荷の車を御しながら固安から戻ってきた。見ると十五、六の美しい少女が泥に足を取られ、ひどく難渋していた。陽はもうじき沈みそうである。明眸皓歯という言葉そのままの娘は、李秀の荷車(二輪の小型の馬車。中国には四輪は近代までない)を見ると、乗せていって欲しいのだが、恥ずかしいので言えないようすだった。李秀は軽薄な性格だったので、からかうように声をかけ、荷車に乗るよう誘った。娘は少し躊躇するようだったが、結局、車の荷台に乗った。途上、菓子を買って勧めたが、辞退はしなかった。娘はしだいに緊張が解けていくようで、ふざけた言葉を投げると、顔を赤くして微笑むようになった。
数里も行くと、李秀は、
血塊のように真っ赤なサンゴの簪(かんざし)を懐から出して、娘の黒髪に挿してやった。その簪は馴染みの芸者のために買いもとめておいたものである。娘はひどく気に入ったようで、すっかりうちとけた。娘の容貌がいささか蒼黒くなったようだが、李秀は気にしなかった。
さらに十余里も進むと、暮色が迫り、あたりを黄色に染めていった。娘の眼も眉もしだいに変わっていく。
南宛城の西門の近くまで来て、李秀は荷台の娘を顧みると、桃色に輝いていた頬はすっかりこけて茶色になり、顔かたちは変わり、美しい緑の黒髪は抜け落ち、ぼさぼさの白髪になっていた。李秀はあわてて目をこすったが、空が暗くなったせいかと思い、あえて尋ねなかった。
旅館の門に着いて、いざ部屋に誘おうと車から降ろすと、まったくの老婆になっているではないか。
老婆は言った。
『あんたに気に入っていただいて、とても嬉しかった。じゃけど、歯が抜け、顔にも皺が寄り、今晩はあんたと寝床を共にすることはできぬわい。とても残念じゃがの』
それから数歩歩いてから振り返り、頭に挿したサンゴの簪に手をやって言った。
『この赤いサンゴの簪をもらわなければ、あんたの血をもらったろうね。芸者にお礼を言っときなよ』
と、一笑し、暗闇の中へ去っていった。あれはどんな化け物だったのだろうか。李秀の表弟(母方のいとこ)がわたしの料理人で、かつて李秀から直接、聞いたと説明した。


7.生きている屍


 蒋心餘が言うには、ある日、友人のところに、遠い南からの客人が所用で来た。そのおり、友人は客人を湖へ船釣りに連れて行った。すると湖には画船(遊興用に船体に絵を塗った船。屋形船)が漂い、蕭や太鼓などの楽人を載せ、紅い裙(スカート)の歌妓が酒を勧めている。客人がよく見ると、自分の妻ではないか。家から二千里も離れているのに、いったいどうやってここまで流れて来たのか?驚きと恥ずかしさで口を噤んだままだった。その歌妓は夫を見てもまるで知らないように、慚愧の色も、恐れの色も顔にはなかった。唄を歌ったり、曲を弾いたり、酒を飲んだりして、とても楽しそうなしぐさは妻にそっくりだった。ただ、女性の声は、妻とは似ていなかった。また、妻は笑うと口をおおうのが癖だったが、この歌妓はそういう癖はなかった。だが、妻には右腕に米つぶほどの赤痣があったが、この歌妓にも同じものがあった。ひどく不思議に思い、早々に宴席を片づけ、宿にもどって故郷に帰る旅じたくをした。そのとき、家からの手紙が来て、妻が半年前に死んだと書いてある。ならば、自分は幽霊を見たことになる。それでさらに深く調べることは止めて故郷に帰った。
だが、友人は気になり、さらに調べていた。しばらくして、とうとう以下のことがわかった。
一人の遊び人が、江南との間を往来し、人に会わず、交遊せず、またなにか仕事をしているふうでもなかった。妓女を数人囲って、この都市にいるときはめったに出かけず暮らしていた。たまに一人あるいは二人の妓女を連れ出して、仲人業の老婆に売るだけであった。婦女を売り買いする業かと思ったが、人とつきあわないので、だれも尋ねたことがない。
ある日、その遊び人は慌てたようすで出かけ、急いで船を雇って天目山に赴き、高僧にお祓いを頼んだ。だが高僧には、遊び人がどうしてご祈祷を頼むのか、その説明が要領を得ず、なにを言っているのかよくわからない。焦った遊び人は、
『仏教は広大無辺で、仏にすがろうすれば拒まないはずでござんしょう。どうかお慈悲ですから、雷の罰をくださないようご祈祷くだせえまし』
高僧はどうも話しに裏があるようなので、お布施を返し、帰ってもらった。遊び人は帰る途中、はたして雷に打たれて死んでしまった。
後に、遊び人の下僕が秘密を漏らして言うには、
『あの男は、紅い衣の僧侶から秘術を受けたんでさあ。呪術を使い、妖狐淫霊を、死んだばかりの女の屍体に憑依させて生き返らせ、おのれのかたわらに侍らせる。また新たに屍体を得れば、前の屍体は他人に転売してやした。毎回、えらくたくさんの銭を得ていましたぜ。それでとうとう夢枕に神さまが立ち、おまえの悪は満貫となった。天誅に伏せとのお告げを受けました。懺悔して赦しを求めようとしたんですが、だめだっていうわけで』
友人は、江南の客人が見た女というのは、この遊び人がやった呪術なのではないかと疑っている。理藩院尚書(清朝の外務省局長)の留公の話しでは、ラマ教(チベット密教)には、紅教と黄教があるが、紅教には婦女を操る術などがあり、黄教はこれを悪魔の術として排斥しているとのことだった。


8.野人


(イェティ、ヒマラヤの雪男、アメリカ・ロッキー山脈のビッグフットなど、人間に似た大型の生き物がときどき話しにのぼります。中国の野人も湖北省西部の山奥に棲息しているといわれますが、この話しを読むと、中国西部の山地には昔から広く棲息していたようです)


 ウルムチに流刑となったことがある剛朝栄の話しである。ある二人の商人がチベットへ貿易に行こうと、それぞれ騾馬に乗って出かけた。だが、山道で道に迷い、方向がわからなくなってしまった。
すると懸崖絶壁から十人あまりが飛び降りてきたので、山賊だと思った。近寄ってきた彼らは、背丈がみな七、八尺(二メートル四、五十センチ)もあり、身体は長毛だらけで、その体毛は黄色や緑色で、目鼻立ちは人間にはみえなかった。言葉は嘶(いなな)くようで聞いてもわからなかった。
二人の商人は妖怪たちに殺されると思い、皮膚にあわ立てるほど恐怖に震えて地に伏した。彼ら十人あまりはたがいに顔を見合わせて笑い、商人を縛ったり食べたりするつもりはないようだった。ただ商人を脇に抱きかかえたまま、騾馬を駆けさせた。山の窪地に来ると、二頭の騾馬を穴に追い落として殺し、刃で切り分け、火をおこして焼き、車座になって食べた。食べ飽きると、十人余りの山賊はみな腹を抱えて天を仰いで声を上げた。そのありさまは馬が嘶くようであった。
そのうちの二人が商人をそれぞれ一人抱え、険しい山々を飛ぶように上り下りした。その速さは、まるで猿か鳥のように俊敏であった。官用道路まで送り、商人それぞれに一つの石をわたしてから、あっという間にいなくなった。その石の大きさは瓜ほどで、緑松石(当時、高価とされた玉の一種)だった。持ち帰って売ると、失った騾馬の倍の価格だった。その出来事は、乙酉、丙戍(一七六五~六六年)の間におきた。
剛朝栄は商人のうちの一人と会い、くわしくその話しを聞いたのだった。彼らは山の精か、樹の魅かはわからないが、その行動からすると、妖怪ではなさそうだ。ほとんど深山幽谷に住む、このような野人の一種は、古代から人間世界とは行き来しないのである。

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閲微草堂筆記 紀暁嵐 1
本文作者:德田     文章标题: 閲微草堂筆記 紀暁嵐 1
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