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漢文帝の后 竇皇后の数奇な出会い
首页 > 中国ふしぎ実話集 作者:德田 2018年11月6日 浏览:267 文字サイズ: 评论:暂无评论

漢文帝の后、竇(とう)皇后の数奇な出会い

近年、2007年6月に、山西省のレンガ工場で、強制労働させられていた数百人の少年(童工)たちが救出された事件があった。みな皮膚病、暴行による傷を受けていたが、まだ千人以上の少年が、ひそかに隠匿され、見つかっていないという。
はるか昔の中国、漢の文帝の后、竇皇后の弟も、同じ境遇にあった。
秦の始皇帝の死後、天下は混乱し、さらに項羽と劉邦の戦いで、中国全土は大きな戦禍をうけた。劉邦がふたたび天下を統一したが、劉邦の死後、呂太后は人豚を作って専制をつづけた。呂太后の死後、周勃(しゅうぼつ)や灌嬰(かんえい)らの開国の功臣たちは、劉邦の息子のなかから、温厚で賢明な人物を皇帝に擁立した。文帝である。ここでようやく朝野にわたって平和な時代が来た。
文帝とその子の景帝の四十年間は、ひたすら民間を休息につとめさせた。このような平和で満ち足りた時期は、長い中国の歴史で、わずか二回しかなかった。もう一回は、はるか後の清朝、西暦1700年代前後の数十年間である。
ともあれ、その文帝は紀元前一八〇年に即位した。資治通鑑の前一七九年の項には以下のような記述がある。


資治通鑑 文帝前元年

三月、文帝は太子劉啓(のちの景帝)の母竇(とう)氏を皇后にたてた。竇皇后は、清河郡の観津(かんしん。河北省武邑県東)の人である。
弟の竇広国は、字を少君といい、幼いとき誘拐されて売られてしまい、十余の家を転売された。姉が皇后になったと聞いたので、上書して出生をのべた。竇皇后が召して、問いただすと、事実だったので、田畠住宅や金銭を厚く賜り、長安城内の邸宅に兄の長君とともに住むことになった。
絳侯(こうこう)の周勃と将軍潅嬰(かんえい)たちは相談していった。
「わしらの生死は、この兄弟お二人の手にかかっている。二人とも賤しく低い身分の出だから、良い輔佐役と顧問を選ばねばならぬ。さもないと、お二人はまた呂后一族のまねをすることになる。これはまことに国家の大事だぞ」
そこで知識人の中から人格高潔で節操があるものを選び、兄弟と同居させた。
竇長君と竇少君は、それからというもの、温和で謙譲心のある君子となり、じぶんの身分が高いからといって、他人に驕ることはなかった。


これだけなら、なにげなく読み過ごしてしまう文章である。だが、その裏には驚くべき運命が隠されていたのだ。それでは、竇皇后と竇少君との数奇な運命を、〈史記・外戚世家〉からそのまま引用しよう。


史記・外戚世家 竇皇后の数奇な出会い

呂太后のとき、竇氏は良家の子女ということで(実際には竇氏は下記に記されているように、良家の出ではない。有力者は金品を役人に贈って逃れてしまうので、竇氏のように貧しい家が娘を差し出すことになる)宮中に入り、呂太后に仕えることになった。
あるとき呂太后は、若い宮女を五人ずつ皇族の王たちに賜ることにした。竇氏も名簿の中に含まれていた。竇氏の家は清河にあったので、故郷に近い趙国に行きたいとおもった。そこで担当の宦官にたのんだ。
「どうか必ず、わたくしを趙国へ行く名簿に入れてください」
一宮女のいうことなど、いちいち覚えているはずはない。はたして宦官は間違え、代国に送る名簿に入れてしまった。名簿が奏上されると、呂太后は許可をあたえた。
行くときになって、はじめて間違っていることが判り、まだ少女だった竇氏は、その宦官を恨み、行きたくないと泣き叫んだ。だが、人々に無理強いされて、ようやくおもむくことになったのである。
代国の王(のちの文帝)は五人の宮女のうち、竇氏だけを寵愛し、娘の嫖を生んだ。そのあと、男子二人(のちの景帝と梁の孝王)を生んだ。
正妻の王妃も四人の男子を生んだが、代王が皇帝にならないうちに、王妃は死去した。王妃の四人の子も、代王が皇帝となったときに、つぎつぎと死んでしまった。
代王が皇帝となって数か月たつと、大臣たちは太子をたてるよう奏上した。そのとき、竇氏が産んだ男児がもっとも年長だったので、太子とした。娘の嫖を長公主(のちの館陶公主。文帝の孫の武帝を皇帝にたてるとき、力を尽くすことになる)とした。
その翌年、竇氏の末っ子の劉武を代王に封じた。そのあと梁国にうつして、梁の孝王とした。
竇皇后の両親は、早くに死去しており、観津に葬られていた。(中略)

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竇皇后の兄は竇長君、弟は竇広国、字を少君という。少君の家は貧しかった。彼は四、五歳の幼児のときに、誘拐されて行方知れずになった。
少君は十あまりの家々をつぎつぎに転売され、宜陽(河南省宜陽県西)まで流れて来た。その主人の下では、(買われてきた)多数の少年たちが、山に入って炭をつくっていた。
ある夜、あまりに寒いので、百人あまりの少年たちは崖下の穴で寝ていたところ、崖が崩れ、みな圧死してしまった。ただ少君一人だけが助かった。そこで、自分で占ってみると、
『数日内に、侯爵になれる』という卦(け)がでた。
それから、主人の家族にしたがって長安におもむいた。たまたま、ひとの噂に、今度、皇后になった女性は、故郷は観津で、姓は竇だと聞いた。それは自分と同じなので、もしかしたら、宮中にあがった姉ではないかと考えた。少君は、幼いときに攫われたけれど、生まれた県の名と姓はおぼえていたからである。また、かつて姉といっしょに桑の実を採ろうとして、樹から落ちたこともおぼえていた。そこで、そのことも書き記して竇皇后に上書した。(自分で書けるはずがないので、主人の家族に書いてもらったのだろう)
竇皇后は夫の文帝に告げて許しを得ると、少君を宮中に召して尋ねた。少君が詳細にのべた内容は、みな本当のことだった。
竇皇后はさらに尋ねた。
「ほかになにか覚えているかえ?」
少君はこたえた。
「姉さんが宮中に召される日に、伝舎(公務用の旅館)の中で、ぼくはお別れしました。最後に、姉さんは湯浴みの道具をお役人から借りて、ぼくの身体を洗ってくれました。食物ももらって、食べさせてくれました。それから、姉さんは旅立ったのです」
竇皇后は、その話しを聞いたとたん、弟のところへ走り寄り、かたく抱きしめ、大声をあげて泣きだした。二人とも涙があふれてとまらない。左右に侍していたお付きの人びとも、皆もらい泣きして、床につっ伏していたのであった。


やさしい姉はいつも可愛い弟の身体を洗ってやったり、食べさせてやったりして、めんどうを見ていたはず。伝舎でもそうやって最後の別れを惜しんだのだろう。二人とも姉弟の恩愛をどうして忘れられようか。
少君が誘拐されたのは、秦末からの長い戦火がやんで数年たったときで、社会はまだ混乱状態にあった。当時、生き別れ、死に別れになった人々は、何百万人もいただろう。もらい泣きしたお付きの人たちも他人ごとではなかったのだ。ふたたび出会えた竇姉弟は、きわめて幸運な例にすぎない。中国では、このような悲しい出来事が、いくたびも起きた。日本では起きなかったのか。いや、現代の日本でも満蒙開拓団の悲劇があるではないか。

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