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始皇帝の死  呪われた宮殿 沙丘
首页 > 中国ふしぎ実話集 作者:德田 2018年11月16日 浏览:258 文字サイズ: 评论:暂无评论

わたしが以前、住んでいた家の近くには、呪われた踏切と、ひそかに人びとにささやかれている場所があった。その踏切では、なぜかわからないが何人も電車に轢かれた。踏切にかぎらず、しばしば交通事故を起こす道路の交差点やカーブ、あるいは自殺の名所といわれるところがある。中国の風水学を知らなくても、同じ場所に、人びとがまるで吸い寄せられるようにやって来て、何度も事故を起こせば、これは呪われた場所ではないかと感じるだろう。 

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▲安陽後岡 首を切られて胴体だけが整然と埋葬されている

 今から2200年以上も前の紀元前210年、天下統一をはたした始皇帝は、全国巡遊の旅に出た。始皇帝にとって、全国巡遊はすでに5回目であった。秦の威厳を示すため、毎回、10万人の大部隊を率いて巡行するのだ。ところが、帰京する途中、病を発し、とうとう沙丘(河北省平郷県付近)にて病死してしまった。沙丘は、秦が全国に置いた離宮のひとつである。その後、宦官の趙高が権力を握り、温厚な太子扶蘇を自殺させて、冷酷な胡亥を二世皇帝に立てた。その経緯については、下記の資治通鑑からの引用をご覧いただきたい。

沙丘という場所は黄河の沿岸にあり、渤海から黄河を遡る途中でもあるから、船による移動、運漕にも便利だった。黄河の渡河点でもあったのだろう。近くに鉅鹿沢という大きな湖もあった。いろいろな意味で食糧が調達しやすい場所でもある。当時の山東、浙江、江蘇一帯は湿地帯だったから、河北大平原も黄河のたびたびの氾濫でかなり低湿地が多かったろう。沙丘はその名前からして、人が住むに適する、乾燥した地だったのではないだろうか。始皇帝はこのような点を考えて、離宮を置いたのだろう。
だが、実は、沙丘の宮殿は中国の帝王たちにとって呪われた場所だった。始皇帝は迷信深かったたのに、知らなかったのだろう。知っていれば泊まるはずもない。
沙丘は、戦国時代、趙の武霊王が、叛乱をおこした長男によって、閉じこめられて餓死したところである。そして、それより昔の殷の紂王が、ここで酒池肉林に溺れ、殷の国を滅ぼしてしまったところでもある。

だが、いったいなぜ、始皇帝、武霊王、紂王が、この場所に吸い寄せられたのだろうか。

酒池肉林ということわざは、殷の紂王が、沙丘離宮の庭園や望楼を壮麗にし、酒をそそいで池をつくり、肉を木につるして林とし、淫楽にふけったところから来ている。批判する人びとは罪に陥しいれ、真っ赤に熱くした銅の円柱を歩かせた。落ちれば、下の炎の中で焼け死んだ。紂王は諫めた臣下を殺して、乾し肉や、塩漬けの肉にしてしまった。

以上は史記に記されている内容だが、甲骨文から知ることができる実際の紂王は、暴君ではなかった。むしろ、殷の領土をつぎつぎに広げた英邁な君主であった。紂王は、各地に転戦して異民族たちを滅ぼしていた。だが、紂王の出征中の隙をついた周の武王が蜂起し、あわててもどってきた紂王の軍を牧野(河北省淇県南。沙丘より黄河の200キロ上流)にて撃ち破ったのだ。
殷王朝は、人間をひどく残酷にあつかっていた。戦争で得た捕虜を先祖の魂にささげるため、大量に殺したり、王の墓に殉葬させたりしている。殉葬させるときもたいへん陰惨で、首をはねられたり、生き埋めにされたり、犬といっしょに埋められていた。


ある程度よく保存されているのが、殷墟小屯の侯家荘1001号殷王墓と、武官村大墓の殷王墓である。この1001号墓には約400体分の骸骨(丁寧に埋められている家臣も含む)が発掘された。武官村は盗掘されているので、79体である。
1950年に、武官村大墓の南で、さらに陰惨な17個の墓が発見された。いや、墓ではない、死体を捨てたゴミ穴だ。一個毎の穴に、頭がない骸骨、あるいは下顎から上がない、あるいは上顎から上がない骸骨が、手足をしばられたり、両手を後ろ手にしばられたりして投げ込まれている。

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▲人頭骨だけの埋葬坑(西北崗東区1515号)

 このような墓は、その後も安陽からもつぎつぎと発見されている。安陽殷墟の祭祀坑からは、じつに合計1178体分もの人骨が発見された。青壮年の男女で、老人はいない。つまり戦争捕虜である。甲骨文からも、つねに羌族を犠牲にささげているのが分かる。多いときは一度に300人もの羌族を殺した。
ちなみに周の姫姓族と同盟して殷王朝を倒した太公望呂尚は、羌族の族長。姫姓族とはつねに通婚する、いわゆる胞族の関係であった。

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▲安陽後岡10号殺殉坑 副葬品も散見

 なぜ殷族は羌族をこれほど憎んでいたのか、詳細は『中国古代王朝消滅の謎』(水上静夫著、雄山閣出版)を参考にしていただきたい。
紂王も先祖の殷王よりもさらにおびただしい羌族や異民族を殺したはずだ。当然、沙丘の宮殿には、殺された多数の人びとの怨みがこもり、霊魂が成仏せずに漂っていただろう。

また、戦国時代の趙の武霊王は、当時、比較的弱かった自国の軍隊に、画期的な軍事改革『胡服騎射』を断行し、軍事強国に躍り出た。騎馬民族の軍制を取り入れたのだ。そして、西の楼煩などの胡地を帰順させ、東の狄族が建てた中山国を滅ぼした。また、秦の始皇帝も無数の人びとの怨みを買い、武力によって天下を統一した。

この三人に共通するのは、血塗られた武力である。おそらく、殷の紂王が沙丘宮殿にて無意識に呪いの場を作ってしまい、吸い寄せられるように知らずに来た趙の武霊王と、秦の始皇帝は巻き込まれたのだろうか。
なぜ、そう言えるのか。風水では、東北は鬼門である。
恐るべきことに、地図を見れば、趙の首都邯鄲、秦の首都咸陽、沙丘はほぼ一直線上に並ぶ。
沙丘は、趙の首都邯鄲、秦の首都咸陽の東北にある。つまり、鬼門の方角なのだ。中国語の鬼とは、幽霊、悪霊の意味である。鬼門から悪霊が手を振って招き入れたのかもしれない。
沙丘宮殿を訪れた帝王は、始皇帝が最後だった。三回も変事が起これば、当然、おかしいと気がついたはずだ。始皇帝以後の帝王は、二度と沙丘に近づくことはなかった。
さて、読者の知人の中には、自分の利益のために、他人を死に追いやった人がいらっしゃいますか。もし、お知りあいにいらっしゃるなら、忠告しておいてください。鬼門の方向は、よくよく気をつけなければなりませぬ。知らずに呼び寄せられて、とり殺されることになりますぞ、と。
【上記3葉の写真は、『東洋の歴史 1』(人物往来社・昭和41年)より】


趙の武霊王 参考史料 
資治通鑑・周紀四 周の赧(たん)王(前295) 
2節  趙国の主父(武霊王)は斉国、燕国とともに中山国をほろぼした。その王を膚施(陝西省楡林県南)に放逐した。主父は帰国すると論功行賞と大赦をおこなった。さらに全国民に酒を振る舞い、5日の間、
寛(ほ)(註一)をゆるした。

註一:集会して大宴会を開くこと。古代では常に戒厳令と夜間外出禁止令がしかれ、市場以外で大勢が集まれば反乱準備とみなされた。 戒厳令、夜間外出禁止令が解かれたのは、はるかに下った北宋の時代である。

3節  趙国の主父(武霊王)は長子の章を代(河北省蔚県東北。旧中山国の地)に封じ、安陽君と号した。
安陽君章はじぶんが嫡男なのに王になれなかったため、いつも傲慢な行動で、内心は異母弟の何(恵文王)を趙王とはみとめていなかった。主父は田不礼を安陽君の相(補佐官)に任じた。大臣の李兌は肥義(相つまり宰相にして恵文王の後見役)に忠告した。
「公子章は強壮にして心は驕慢にみちておる。じぶんの派閥の人間は多く、権力欲も大きい。田不礼は残忍で傲慢な男だ。この二人が意気投合すれば、きっと陰謀をたくらむぞ。小人がいったん欲望にかられると慎重な行動などできるはずもない。その目先の利益だけを見て、損害を顧みない。もうしばらくすれば、かならず大災難がやってくるぞ。そなたは重責を任され大きな権威がある。反乱が起きれば惨禍の中心となってしまう。どうして病と称して隠退しないのだね。公子成(主父の叔父)に政権を渡せば災難をまぬがれるではないか」
肥義は沈痛な面持ちでこたえた。
「かつて主父はわしに恵文王の何さまをお任せになるとき、『そなたの節操を曲げるな。そなたの志を変えるな。忠心は死すとも堅く守れ』とおっしゃった。わしは再拝して命を受け、それを史官に記録させた。もし田不礼の反乱を畏れてわしの誓いを忘れてしまえば、変節ではないか。ことわざにも『遺孤を託さるるとき、その人死すとも我はそむかず。その死者再び生きかえるとも、生者のわれは恥づることなし』(〈国語・晋語二之七〉、〈史記・晋世家〉瀕死の秦の献公から尋ねられた時の荀息の言)と言う。わしが守りぬきたいのは、わが身ではなく約束なのだ。そなたにはありがたい忠告をいただいたが、すでに約束してしまった。それを忘れさることはできんのだよ」
李兌は答えた。
「よくわかった。力をつくしてわが道を進め。そなたは来年までは生きられないとおもうがのう」
と、涙をながし嗚咽しながら出ていった。
李兌はたびたび公子成と相談し、田不礼の反乱に備えるよう求めた。
肥義は恵文王の家臣である信期(高期)にいった。
「公子章と田不礼は名声はあるが、内実は悪人なのだ。内に主父の憐れみを頼りとし、外に悪逆をおこなう。いつかきっと主父の命令と偽って暴動を起こし、政治大権を奪うだろう。わしは心配で夜も眠れず、食事も忘れてしまうほどだ。主父のお側を出入りしておる盗賊どもに備えなければならん。今後は主父の名で恵文王を召喚するものがいれば、かならずわしが会ってみる。わしがまず行ってみて何事もなければご主君が行かれることにしたい」
信期は承知した。
主父は恵文王に朝廷に臨ませた。主父は傍らで観察していると、群臣が平伏する中で、長子の公子章がうんざりした面持ちで、北面の家臣として弟に対し膝を屈していた。主父は内心憐れに思い、趙国を分割し公子章を代国の王としようかと考えたが、迷ううちに沙汰止みとなった。
ある日、主父と恵文王が沙丘(邯鄲東北70数キロ)に遊び、それぞれ別の宮殿に休んだ。その機会に乗じ、公子章と田不礼は部衆を集めて反乱を起こした。主父の命と偽り恵文王を召しだそうとしたのだ。信期は肥義に伝えた。先に主父の宮殿に入った肥義は刺し殺されてまった。信期はただちに恵文王の警護隊を率いて応戦した。公子成と李兌の部隊が国都邯鄲から駆けつけ、公子章と田不礼を殺し、その一党をみな殺しにした。公子成は相(最高行政長官)となり、安平君と号した。李兌は司寇(最高法務長官)となった。恵文王は幼少だったので公子成と李兌が国事を統制した。
公子章が打ち破られたとき、主父(武霊王)の宮殿へ逃げこんだ。主父は宮門を開けて中に入らせた。公子成と李兌は宮殿を包囲した。公子章は探しだされ殺された。公子成と李兌は謀議した。
「われらは公子章を殺すため主父を包囲した。もしわが兵を解散すれば、主父はわれらを一族滅亡のうきめにあわすだろうな」
そこで宮殿を包囲しつづけることに決め、同時に、
「ただちに、宮殿から出ればよし。後から逃げだすものは一律斬首する」
と命令した。宮中のものはことごとく逃げ出した。主父も逃げようとしたが宮門にて一人止められてしまった。食料もなく、生まれたばかりの雀の雛を探しだして食べ、ようやく生命をつないでいたが、3ヵ月余りで沙丘宮にて餓死した。公子成らは主父の屍体を確認したのち、喪を発し諸侯に使者を出した。
最初、主父は嫡男の章を太子にしていた。しかし後に呉娃(呉広の娘、孟姚。呉楚では美女を娃と言った)を娶り寵愛した。数年間も宮殿に閉じこもり一歩も外に出ないほど愛したのだった。何が生まれると太子章を廃し、何を太子にした。だが、呉娃が世を去ると、何への溺愛は衰え、逆に元太子への憐愍が増し、二人とも王に立てようかと躊躇している間に動乱が起きてしまったのである。


秦の始皇帝 参考史料 

秦紀二・始皇帝三十七年(前210年
1節  冬、十月四日、始皇帝はまた巡遊に出た。左丞相李斯がしたがい、右丞相馮去疾が咸陽の留守をまもった。始皇帝には20余人の男子がいたが、末子の胡亥をもっとも可愛がっていたので、随行をゆるした。 
十一月、雲夢(湖北省沙市市から洪湖一帯)に行幸し、九疑山(湖南省道県東南)に埋葬したという虞舜(舜帝)を祭祀、遥拝した。長江をくだって籍柯(不詳)を観て、海渚(梅渚ならば江蘇省郎渓北)をわたり、丹陽(安徽省馬鞍山市東南)をすぎ、銭唐(杭州市)にいたり、浙江(富春江)をのぞんだ。波浪が大きいため、西に百二十里ほど行き、
(きょう)中(浙江省富陽県)から浙江を渡河した。会稽山(紹興市南)をのぼり大禹(夏王朝初代)を祭り、南海(南方の海)をはるかにのぞんだ。会稽山にみずからの功績を顕彰した石碑を立てた。帰途、呉(蘇州市)をすぎ、江乗(南京市東)から長江をわたり、海岸にそって北上し、琅邪(山東省膠南県西南)から之罘(山東省芝罘島)にいたった。海上にて巨大な魚を見つけ、射殺した。さらに海岸にそって西行し、平原(山東省平原県南)の黄河の津(渡し場)にて病いを得た。始皇帝は死ぬということばを忌み嫌っていたので、群臣は死後の処置をいいだすものがなかった。だが病いはますます重くなり、ようやく死をさとった始皇帝は、上郡にいる扶蘇あてに書簡を作成させた。
「すぐさま咸陽にむかい、わしの霊柩車を出迎えて葬れ」
その書簡は中車府令(車馬・輿担当の宦官)兼行符璽事(軍符、御璽管理官)の趙高がつくり、封印したが、まだ使者に手渡してはいなかった。
秋、七月丙寅日(七月にこの日はない)、始皇帝は沙丘の平台(註一)にて逝去した。丞相の李斯は始皇帝の死が外にしられると、公子(王子)たちや天下に変乱がおきるのではないかと恐れ、喪を秘したまま棺を(おん)涼車(窓を開閉して温度調節できる四輪の大車)にのせ、寵信の宦官を陪乗させた。離宮に到着するごとに、始皇帝の飲食や百官の奏上はあたかも生きているごとくとりおこない、陪乗の宦官が車中から決裁の回答をとりつぐふりをした。その事実を知っているものは、胡亥、趙高、その他ひごろ寵愛深かった宦官5、6人だけであった。
かつて始皇帝は蒙氏兄弟をあつく尊寵、信任していた。蒙恬は外に将軍となり、蒙毅はつねに始皇帝に侍して国政に参与しており、忠信のほまれも高かった。そのため有力な将軍、大臣でさえ、かれら兄弟には遠慮していた。趙高は生れつき生殖器が未発達であった。始皇帝はかれが力持ちなうえに獄法(刑法、民法、行政法など)にも通じていると聞いたので中車府令に抜擢し、胡亥の教師として訴訟事件の決裁のやり方を教えさせた。趙高はすぐに胡亥の気持ちをつかみ、たいへん信任されるようになった。趙高がある罪で処罰されることになり、始皇帝は蒙毅に裁定させた。蒙毅は趙高が死刑に相当すると判決した。だが始皇帝は趙高がひじょうに有能であることを惜しみ、罪を赦免して原職に復帰させた。趙高は死刑の判決をした蒙氏兄弟に心底恨みをいだいていたので、胡亥の寵信を一身にうけていたのをたのみに、胡亥を説得した。扶蘇を誅殺して胡亥を太子に立てるように始皇帝の命を矯詔するよう勧めた。説得された胡亥はその陰謀に同意した。
趙高はいった。
「李丞相と謀らなければ、おそらくことは成りませぬ」
そして趙高は李斯と面会した。
「お上が長子扶蘇にたまわった書簡と符璽はみな胡亥のさまのお手元にございます。胡亥さまを太子に立てるかどうかは、すべてあなたさまと、この趙高ふたりの言葉できまるのです。これをどう思われますか」
李斯はおどろいていった。
「そんな亡国の言葉がどこから出るのだ。帝位継承の件は人臣が論ずることではない」
いいだした以上、説得が失敗すれば死罪である。趙高は必死に食い下がった。
「丞相さまは能力、謀略、功績、人徳、長子の信頼、この五つを蒙恬とくらべてどちらが優ってらっしゃいますか」
一瞬黙した李斯はいった。
「わしはすべて及ばぬ」
趙高は得たりとばかり頷いた。
「さすれば長子が即位なされば、かならず蒙恬を宰相に用いるのは必定。あなたさまはついに列侯の印綬をうしなって郷里に還るは明らかではありませぬか。胡亥さまはご慈愛深く、後嗣ぎとしてまことに相応しいかたであられます。どうかそこのところをよくよく熟慮あそばされてお決めくださいませ」
丞相の李斯は考えたのち、ついにともに陰謀に加担することに決意した。始皇帝の詔(聖旨)といつわり、胡亥を太子に立てた。さらに書簡を扶蘇にたまわり、はげしく叱責した。国土を開拓できず、士兵を多数死なせたくせに、たびたび上書して直言誹謗し、帰京して太子になれぬことを日夜恨んでいたというのだ。また、将軍蒙恬は扶蘇の陰謀を知りながら矯正できなかった罪で死をたまわり、軍の指揮権を裨将(副将)の王離にわたすよう命じた。
おとなしい扶蘇は書簡をよむと泣きだし、宿舎にもどって自殺しようとした。蒙恬はいった。
「陛下は地方で巡遊されて太子をいまだ立てられておられません。わたくしは三十万の兵をあずかり辺境を守り、公子は軍監となられています。これはまことに天下の重任であります。それなのにいま、ただひとりの使者の話しを軽率に信じて自殺なさるなら、陰謀であるかどうか確かめようもありません。再度、上書して事実を確認されてから死んでもおそくはないはずです」
使者はかたわらで幾度も二人の自殺を催促した。扶蘇は蒙恬にいった。
「父が子に死をたまわったのだ。どうしてまた上書する必要があろうか」
扶蘇はすぐに自殺した。蒙恬は自殺をこばんだので、使者は刑吏に身柄を拘束させ陽周(陝西省石湾)に拘禁した。さらに李斯の舎人(秘書)を護軍都尉(軍団の監察官)に任じて軍の叛乱にそなえてから咸陽に報告した。胡亥は扶蘇が自殺した報せを聞くと、蒙恬を釈放しようとした。たまたま蒙毅が始皇帝の代理として山川を祭祀したのち行列に帰したところだった。趙高はかつての恨みを晴らそうと胡亥に讒言した。
「先帝は賢明なるあなたさまを太子に立てようと長いあいだお考えだったのですが、蒙毅が反対したのです。絶対に誅殺すべきであります」
そこで蒙毅を代(河北省蔚県北)に移し牢屋につないだ。
始皇帝の棺をはこぶ胡亥一行は井濡(けい)(河北省石家荘市西南)から九原(内蒙古自治区包頭市西)に到着した。
猛暑のため秋、禹(おん)涼車の屍体はひどい悪臭をはなちはじめた。そこで随従の官吏に魚の干物を一石(120斤。約30㎏強)ずつ載せるよう詔して屍臭をごまかした。九原から直道(直線軍用道路)を矢のごとくいそいで咸陽にもどり、ただちに喪を発表し、太子胡亥は皇位を継承した。
九月、始皇帝を驪山に葬った。地下深く掘った墓穴に溶けた銅をながしこんで地下水が湧きでないようにし、珍奇な財貨宝物を府庫からはこんで陵の側室にみたした。職人に機械式の弩(ボウガン)をつくらせ、穴を掘って陵に近づくものを射殺するようにした。また水銀をもって多数の川や長江黄河、大海の模型に流れるような構造にした。天井は天空をかたどり、床は山河の地形を形づくった。さらに男子を生まなかった後宮の側女たちはすべて殉死させられた。埋葬がおわると、職人らは機械をつくったゆえ、それを破る方法も知っているはずだから世間に漏れる恐れがあると進言したものがいたので、墓の入り口を閉じるときに、生きながら職人たちをすべて中に閉じこめてしまった。

註一:沙丘。河北省平郷県付近。始皇帝は沙丘宮のなかの平台にて死去した。

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本文作者:德田     文章标题: 始皇帝の死  呪われた宮殿 沙丘
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