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清末三面記事・清稗類鈔(しんはいるいしょう)
首页 > 中国ふしぎ実話集 作者:德田 2018年12月10日 浏览:181 文字サイズ: 评论:暂无评论

清末三面記事・清稗類鈔(しんはいるいしょう)

  清稗類鈔(しんはいるいしょう)は、清末の人、 徐珂(じょか)が収集した資料である。その名の通り、清一代の稗史を集めたもので、気候、地理はのみならず、皇帝皇后から、やくざ、娼妓まで、ありとあらゆる珍奇な事柄を集めた。だが、残念なことに出典が明らかにされていないので、史料としては扱えない。 
  初刊は1917年、商務印書館から48冊が出版された。中華書局から13冊で改訂版が出ている。ここでは、いくつか紹介する。

1.盗賊から盗んだ盗賊
2.妓楼に入り浸った老翁と息子
3.美少年を飾って娘として売る
4.乞食婆と一夜を過ごした少年
5.さらった婦人を妾として売る
6.訳者の父も見た。悲惨な見せ物!犬人間とクマ人間!皮膚をはがされ犬にされた子供たち
7.消えた花嫁の死体


1.盗賊から盗んだ盗賊

  盗賊の中でも、赶蛋(かんたん)というのは、ふつうの民家から盗むのではなく、盗賊から盗む盗賊である。
盗み方は、盗賊たちが出発したのを伺って入るか、その巣窟を襲うか、あるいは途中で待ち伏せして、ありとあらゆる計略を用いて盗んできた金品を奪うのだ。盗みかと言えば、盗品を取り戻すのであり、盗みではないと言えば、実際には盗みである。役人も拘引する法律はなく、盗賊も防ぐ力はない。悪賢い者のやることである。

興化の人、沈慶齢は年を取って隠居したが、細かく些末なことを尋ねるのが好きだった。たまたま、家に慶事があった。客たちが帰ると、下僕が門戸を閉め、灯火で照らしながら、野犬が台所に入っていないか調べた。すると、炊飯用の薪の後ろに、なにか隠れている。足で蹴ってみると、突然、起きあがってから地面にひざまずいた。年の頃、五十過ぎの人で、盗人と判ったので、詰問してみると、名を積盗と白状した。五百里四方を縄張りとして、巣窟はある湖沼の茅屋にあり、人びとから老漢と呼ばれている。沈慶齢は、盗人が年寄りなのを憐れみ、叱責せずに銅銭数千をあたえ、まっとうな商売をして残りの人生を送るように言った。老漢は礼を言って去った。

しばらくして、老漢は小資本で行商をやり、数年後には、いくばくかの銭を貯めることができた。手下の盗賊たちは、邪念を抱いたが、手を出すことはできなかった。老漢の手下に、樊川(はんせん)の生まれの劉阿七という者がいた。夜、老漢の寝室に忍び込み、箱の中に隠れた。
夜半に、老漢は寝床に入ると、しばらくして突然、妻を起こし、灯火を点けて門戸を調べさせた。
「今夜、弟子が来て祟りをする」
妻は幽霊に会うのはいやだと思ったが、仕方ないので、ちょっと探しただけで、祈りながらもどってきた。老漢は怒り、じぶんが調べてみたが、はやり見つからない。しばらく沈思していたが、突然、大きな水瓶を指さして言った。
「盗人はここにいるはずだ。自分が拙い技しかないのを知らずに恥をかいたな。速く出てこい。自殺するな」
言い終わらぬうちに、水瓶の水面を破って出てきたのは、阿七だった。阿七は老漢が寝ながら話していた言葉を聞いて、逃れるのは難しいと知り、水中に隠れ、瓢箪(ひょうたん)を水面に浮かせ、蘆(あし)の管で空気を吸っていたのだ。
老漢は阿七を見て、微笑して責めた。
「こわっぱめが、肝は大きく、知略も高いと自惚(うぬぼ)れ、このわしを試そうとしたのは、身の程知らずだったな。今度、わしの物を一文でも盗めれば、百金をあたえよう。さもなければ自分の恥をさらすことになるぞ」
阿七はあわてて逃げて行った。

一ヶ月もたたないうちに、阿七の母親が幼い孫をつれて、老漢の門を叩いた。
阿七の母親は泣きながら、
「バカ息子がたいへん失礼なことをして、帰宅してらは、ひどく悩んでおりました。前の夜、首を吊ってしまいました。どうか食べ物をおめぐみください。一生忘れませんから」
老漢は騙しているのではないかと疑い、ひそかに人に見にやらせた。果たして、粗末な棺桶が破屋の中に置いてある。そこで、老漢は米五升と、銭千文をめぐんだ。阿七の母親は孫をつれて帰っていった。
老漢は妻に言った。
「阿七が死んだ。わしは枕を高くして眠れるぞ」
老漢は阿七のことをすっかり忘れてしまった。

翌月、老漢の家が突然、盗みに入られた。だが、盗賊の来た形跡はない。県に告訴するため、昔の同業者に助言を得ようと、訪ねた。たまたま阿七の家の前を通り過ぎたので、隣家にその後を尋ねたら、
「今朝、阿七は母親をつれて樊川に帰って行きましたよ」
老漢はくやしさの余り足ずりをして叫んだ。
「阿七はわしを売りおった!阿七はわしを売りおった!」
すぐに家に戻り、妻に言い、旅装束を調え、樊川におもむいた。三ヶ月も探したが、ついに阿七には見つからなかった。
阿七は赶蛋の中でも、神業の盗人と言えるだろう。


2.妓楼に入り浸った老翁と息子

SINHAI 呉興の某村の老翁は、値千金の絹を、息子に金陵(南京)で売るよう旅立たせた。ところが、息子は妓楼に遊んだおり、ある娼妓に恋して、ながらく帰って来ない。老翁はそのことに気づいて、金陵の妓楼におもむいた。

妓楼の者は言った。
「あなたの息子さんはいますが、今、たまたま外で遊んでいます。しばらくお待ちください」
老翁は夜まで待っていたが、息子は帰ってこない。妓楼では食事と馬の飼料を老翁に与えるのを嫌い、外の建物に泊めた。次の日も息子はもどらない。三日目の晩になろうとしたとき、やり手婆が出てきて言った。
「長らくお待たせしております。待っているばかりではお疲れでしょう。楼の中に入られて花でも観てはいかがですか」

老翁は欣然として従い、妓楼の門をくぐった。
中堂まで来て目をあげると、鮮やかな湘簾、清らかな池と小山が、美しい花木、朱色の欄干と走廊に映えている。美しく化粧した若い妓女が挨拶し、老翁の手を引いて奥深い部屋に導き、美酒と珍味の食事を饗応した。
老翁は思わず陶然として酔い、その妓女とたわむれた。歓びを尽くして、朝日がのぼると、ようやく起きた。勧められて飲食しているときに、息子がようやく妓楼にもどってきた。父子は茫然として、たがいに見つめあい、黙ったまま一言も話さない。食事が終わると、息子は家に帰りましょうと言った。
老翁はしばらく考えて言った。
「おまえは先に帰っていなさい。わしは代金を取り立てたら、帰るから」
老翁はひとり妓楼に一ヶ月も居つづけ、持ち金も品物もすっかりなくなってから、身一つで帰って来たのだった。


3.美少年を飾って娘として売る

  ある豪紳が揚州で妾を買おうとして、何軒もの家をまわったが、すべて意に添わなかった。ある家に寄居していた老婆が娘を売りたいという。娘の歳は十四、五で、姿や形に艶があり、また諸芸を善くした。豪紳は大いに気に入り、大金で購った。

夜になり、ともに寝床に入った。娘の肌をなでると凝脂のようになめらかである。豪紳は興奮して娘の秘所をさぐると、なんと男ではないか。豪紳はひどく驚き、詰問した。その美少年の話では、老婆が美少年を買い、美しく化粧と衣服を着せ、人を騙したのだ。
夜明けに、家人を老婆の借家に走らせたが、すでにもぬけの殻だった。

豪紳はひどく悩み、どうするべきか決めかねていた。たまたま浙江の進士の同年合格者の某が来たので、話してみた。某は興味を持って見に来たが、その少年を一目見て気に入り、豪紳が支払った大金と同額で少年を引き取っていった。

粤西(広西壮族自治区)では婦女を誘拐、騙す事件が多い。
乾隆(けんりゅう。1736-95)以前は、広西には誘拐事件が多発していた。誘拐から助けられて、夫のところにもどることができた婦女に尋ねてみると、今の夫は、もとからの夫ではなく、自分は誘拐されたのだと答える者が多い。はなはだしい婦女は、一回、二回、三、四、五回と誘拐され、転々として、たまたまもとの夫のところに帰ることもあると言う。そのため、婦女が出かけるときは、夫が必ず自分で送る。さもないと、行李貨物のように他人に奪われてしまうのだ。


4.乞食婆と一夜を過ごした少年

  杭州(浙江省杭州市)には夜に航行する船があり、夜百里も行く。男女は船倉に雑魚寝し、ただ間に隔板をはさんで男女を区別するだけである。

仁和の少年張某は性格が軽薄で、風流をじぶんの生命としていた。
夜半、船は冨陽に向かっていた。隔板のむこうには一人の婦人がいて、少年に笑いかけているような感じがしたので、張某はじぶんに気があると思った。
真夜中になり、船客たちはみな熟睡していた。隔板が突然開き、伸びてきた手が少年の下腹部をまさぐっている。少年はひどく喜び、陽根を持ちあげて、まさぐらせた。少年も手を伸ばして触ってみると、まさしく婦人である。とうとう、身を這わせて向こう側に入った。たがいに一言も発せずに楽しみを極めた。

鶏鳴時(午前3時ごろ)に、少年は起きあがり、男側の船倉にもどろうとすると、その女はきつく抱きついて放そうとしない。少年は自分を愛しているからだと思い、ますます楽しみを尽くした。
空がしだいに明るくなり、陽の光でその女を見ると、頭髪はぼさぼさでまっ白ではないか。少年は驚愕した。
その老女は言った。
「わしは街頭の乞食婆で、今年はもう六十余歳ですじゃ。夫も子供も親戚もおりませぬ。身を任せる人がおらず悩んでおりました。はからずも昨夜はあんたの愛をこうむりました。世間でも、一夜の夫妻は、百夜の恩と申します。あんたはもうわしの夫ですじゃ。この身を託したいと思いますぞ。結納金は一銭も要りませぬ。質素に暮らします。粥があれば粥を食べ、飯があれば飯を食べます。いかがかのう」
少年はあせって大声で助けを呼んだ。みなは一斉に起き、事情を知ると、大笑いして嘲笑し、少年に勧めて、老婆へ十金をわたさせた。そこで、老婆はようやく手を離したのだった。


5.さらった婦人を妾として売る

  人間を誘拐して売りさばく者は、どこの都市にもいるが、とくに上海は多い。中国人、外国人が雑居し、水陸の交通が発達して、往来が自由だから、人攫(さら)いの技量が発揮しやすいのだ。
内地で誘拐して上海に連れて来たり、上海で誘拐して、外へ送ったり、奴僕にしたり、豚(男の強制労働者の隠語)にしたりする。だが、警察は分からないし、探偵にも見つからない。

被害を受ける者は、婦女子がもっともひどい。世間的知識が幼稚のためである。その方法は力ずくと詐欺と両方用いる。また一人が両方おこなうときもある。警察、探偵は尋問しようとせず、ひどいときには彼らを庇う者もいる。賄賂を受け取るからである。婦女子を誘拐すると、まず密室に隠し、それから水販(水売り船のことか?)で、運河から送り出す。
婦女は東北三省へ運ばれる者が多く、子供は広東省、福建省などが多い。婦女は条子といい、子供は石頭という隠語である。汽船に乗せるときは、保険をかける。船長も保険業を兼ねているから、各地の探偵とも情報を交換している。そのため、絶対に逮捕されることはないのだ。

揚州、蘇州、松江、無錫の娘たちは、上海の賃金が高いので、金持ちの邸宅に出稼ぎに来る。上海に来て、人材紹介業者の旅館に泊まる。紹介業者というのは、女中などの雇われ仕事を紹介する人である。しかし人身売買の仕事もしている。表向きは紹介をこととし、裏では邪悪な旅館を営んでいる。まず旅館で犯し、いくばくもなくして人身売買をやっている者に売るのだ。
交通は成都、重慶から下り、黄州に至るが、その途中には、匪賊が出没し、かれらの連携は非常に組織化されている。誘拐、人身売買を業とする者たちはたがいに行き来しているのだ。

若い女性を誘拐する方法は、往々にして仲間の女を使う。仲間の女はロバに乗って村落を行き来して物色する。村の婦人がロバに乗って出かけ、後ろから夫がついていくのを見かけると、誘拐団の女は婦人のロバのかたわらにつきながら進む。しだいに婦人と親しく言葉を交わして仲良くなり、ひそかにロバの足を速める。すると村の婦人のロバの足も自然に速くなる。こうして徒歩の夫とは距離が遠くなる。道を幾度か曲がると、村の婦人は道に迷ったことに気づき、焦る。誘拐団の女は慰めて、
「怖がらないで。もう少し先に、わたしの親戚の家があるから、そこで休みましょう。疲れたら泊まることもできますから」
こうして、地獄の宿に導き入れる。門を入ると、室内は皆、男である。婦人は驚き、必ず号泣する。そこで手荒く痛い目に遭わせ、言い渡す。
「おまえは、おれたちの罠にはまった。言うことを聞かないと殺すぞ」
こうして生きる希望を断つ。誘拐団の者がなんども強姦し、これを『滅恥』という。婦人は脅され、また人に犯されたため、心はしだいに絶望する。
誘拐団の者が偽の買い取り主になり、妾として婦人を買う。そしてやさしい言葉でどうしてそうなったのか聞く。婦人は必ず泣きながら訴える。買い主は忍びないと偽り、誘拐団の家にもどす。そこでまた痛い目にあわす。なかなか意志が変わらないと見れば、ふたたび別の偽の買い主に売り、前のように尋ねる。もし同じように答えれば、またひどい目にあわせる。再三再四、これをくり返し、さらに痛い目に遭わせる。買い主に言わないようになったら、はじめて市街に連れていって売る。そのため、誘拐事件は解決できないのだ(ヤクザの手口は絶望させることだから、さらわれた者は最後まであきらめてはならない。従順なふりをして機会をつかんだら逃げること。現代中国でも一説に毎年20万人が誘拐されるているという:訳者注)。

誘拐された者は、二つの直接の被害を受ける。一つは、肢体に危害を加えられる。肢体は誘拐者にとっては道具と同じである。幼児を誘拐して、手足を切り落として、哀れみの銭を得る。もっとも悲惨なのは、幼児を侏儒(こびと)のようにすることである。幼児を甕(かめ)に入れ、頭だけ出す。数年間そのままにして育てれば、侏儒となるのだ。


6.犬人間とクマ人間

  裏社会には子供を誘拐してわざと奇形にする悪者がいる。暴力を使ったり騙したりして誘拐するのだ。

乾隆(けんりゅう)時代(1736-96)に、長沙(ちょうさ)市に見せ物師二人があらわれたが、犬を一匹連れていた。ふつうの犬よりやや大きく、前足は後ろ足より長く、後ろ足は熊のようで、尾はあったが小さかった。耳や鼻はみな人のようで、犬にはまったくみえなかった。だが、身体中には犬の毛が生えていた。人の言葉を話し、各種の小曲を節の通りに歌うことができた。見物客は人垣が出来るほど大勢集まり、争うように銭を投げて歌うよう求めた。

県令(県知事。中国の県は小さく、日本の市町村にあたる)の荊(けい)某がたまたま途中でそれを見かけた。県令は不審を抱き、部下の役人に、県令の大奥様が観たがっている、厚くお礼をするからと見せ物師に言わせて、邸宅に連れて来させた。先に犬を役所(中国の役所はどこでも知事公邸の南側に隣接している)に連れて入り、尋問した。
「おまえは犬か、人間か?」
犬人間は答えた。
「おいらは人か犬か自分でもわからないんだ」
「どうして見せ物師と一緒にいるのだ?」
「それもわからない」
そこで、見せ物師二人が平素、なにをやっているか犬人間に問うた。
「昼間はおいらを引き出して、市場に行って見せ物をやって、夕方になるともどって箱に納れるんだ。でも、ある日、雨が降ったので出かけなかった。見せ物の親方はおいらを船に飼っていたので、箱から出ることが出来た。親方二人が他の箱を開けると、箱には木人数十人がいて、眼や手足がごそごそ動くんだよ。それから、舟板の下には老人が横たわっていたけど、死んでいるのか生きているのか、おいらにはわからなかった」
そこで、県令は二人を逮捕して尋問した。初めは認めなかったが、焼いた針で身体の急所を刺して拷問すると、ようやく自白した。

彼らの話では、その犬は三歳の幼児を誘拐して作ったもので、まず薬で皮膚を爛れさせ、ことごとく皮膚を脱落させて、つぎに犬の毛と焼いた灰、それに薬を混ぜて皮膚に塗った。薬を内服させ、傷が回復すると、身体に犬の毛が生え、尾が出た。まさしく犬だ。この方法は十人に一人も成功はせず、もし犬一匹でも成功すると、一生、食っていける。だから無数の小児を殺して、ようやくこの犬を作ったのだと自白した。
県令はさらに木人とはなにかを尋問した。
「子供を誘拐して、殺されるか木人(身体を不具にされた子供たちの意味)になるか選ばせるのでございます。それから、跛者(足が不便な人)、瞎者(眼が不便な人)、断四肢者(手足がない人)にして、乞食として銭を求めさせるのでございます」
県令の荊某は供述書を得ると、すぐさま役人たちを率いて船を検査した。そして船から老人の皮を発見した。背中に裂け目が入っていて、身体の中には(乾燥させるための)草が詰められている。見せ物師にこれは何に使うのか尋ねると、
「それは九十歳を越えた老人の皮で、ひどく得難い貴重なものでございます。それを乾燥させて粉末にしてから薬と混ぜて、人の身体に射撃(うて)ば、その人間の魂がすぐ来て、わしらのために働くのでございます。何年も求めて、近ごろようやく手に入れました。ですが、皮がまだ湿っていて、粉末にはできませなんだ。事がならないうちに捕まってしまったのは、まったく天命でございます。今はもう早く死なせてくだせえまし」
県令の荊某は大いに怒り、刑具をつけて市中引き回しの上、磔(はりつけ)獄門とした。見物客は喝采を叫んだ。しばらくして、犬人間もまた餓死したのだった。

  乾隆二十七年(1761)、蘇州(江蘇省蘇州市)虎邱(こきゅう)市に乞食がいて、ツキノワグマを飼って見世物にしていた。
そのクマは四川産の小型の馬ほどの大きさである。剛毛が林立し、字や詩吟が書けるが、話すことは出来ない。見物客は一銭を施すと、観ることを許される。半紙に書を求めると、唐詩一首を大書してくれ、値は百銭である。

ある日、乞食がクマを残したまま外出した。人がまた訪れ、紙に書いてくれるよう求めた。すると、クマは次のように書いた。
「わたしは長沙郷の訓蒙の出です。姓は金、名は汝利。子供のときに、あの乞食とその仲間に攫(さら)われました。すぐに唖薬(声帯を焼いて声が出なくなる薬)を飲まされたので、とうとう話せなくなりました。乞食の家にはツキノワグマが飼われていました。わたしは衣服を脱がされてしばられ、全身に針を刺され、血だらけになりました。そのときに、乞食はツキノワグマを殺して皮を剥ぎ、わたしの身体を包みました。人血とクマの血がニカワのようにくっつき、永久に剥がせないようになりました。鉄の鎖でわたしをつなぎ、人を騙すようになったのです。乞食はわたしを使ってもう数万貫(一貫は一千文)もかせぎました」
書き終えると、口を指さし、雨のように涙を流した。人びとはひどく驚いて、帰ってきた乞食を捕らえ、役所に突きだした。役所は見世物のための誘拐殺傷の罪により、乞食を杖殺の刑にした。クマ人間は長沙まで連れていき、家に帰した。

光緒(こうちょ)三年(1877)九月、揚州市内の練兵場で、山東人が幔幕を張って囲い、人びとを入覧させて銭を取っていた。
幔幕の中には、奇形の人間が五人いて、一人の男の子は上半身はふつうだが、両足はみな軟らかい。筋肉はあっても骨がないようであった。人がその子の身体を持ち上げて旋回すると、ひものようにねじれるのだ。またある男の子の胸には小さな子供がくっついていて、皮肉が合わさって一つとなっている。五官四肢はみな備わっていて話すこともできた。またある男の子は右腕はわずか五六寸、右手は銭のように小さい。左腕は膝より長く、左手は葵の葉のように大きい。またある男の子はヘソが茶碗のように大きく、タバコを吸うことが出来る。ヘソに差し込んだ管で煙を吸って、口から出すのである。また女の子は両足はとても小さく、両乳は高くふくらんでいるのに、あごの下には鍾馗(しょうき)さまのような髭(ひげ)が生えているのだ。見物客が多数押し寄せた。
その話しが役所に伝わり、見世物のための誘拐傷害のたぐいだと判断され、揚州から追い出されたのだった。

わたしの父も見た!

  読者のかたがたは、上に述べた子供たちのことは、『聊齋志異(りょうさいしい)』のような奇異な物語りだと思われるかも知れない。しかし、この『清稗類鈔(しんはいるいしょう)』が、小説ではなく、野史、稗史(はいし)に分類されているとおり、わたしは本当のことだったと思っている。
なぜなら、戦前、訳者の父も旧満州(現東北)で見たことがあるからだ。教師として赴任した祖父に連れられて、旧満洲に住んでいた父は、小学校もあがらない幼いときに、同じような年頃の子供たちの見世物を観たのだ。
その子供たちは、ある子は口が縫われていて開かないので、麺類を鼻から食べてみせる。ある子は、頭が異様に細長い。小さい頃から頭の左右に板を押しつけられて、頭蓋骨が変形したのだ。ある子は小さな水瓶から大きな手足を出しているが、そんな小さな水瓶にどうやって入ったのかわからない。幼いときに入れられ、そのまま成長させられたのだろう。

幼かった父はあまりの強烈なショックと恐怖に、数十年後の現代でも鮮明に覚えていて、わたしに話したのである。新中国になって、そのような非人間的な見世物は一掃されて、ほんとうに良かったと言っていた。
だが、現在でも中国のネットを見れば、幼いこどもたちが物乞いや大道芸をやらせれていたり、若い女性が誘拐されて、売春させられていた記事をときどき見る。中国当局には、どうか、そのような事態を根絶してほしいと切に願うばかりだ。
その後、父が見た子供たちはどう暮らしたのか。わが父もすでに世を去って久しいから、あの子供たちもすでにこの世にはいるはずもない。
彼らがこの世を去るとき、そばに看取る人がいたのだろうか。最後にやさしい言葉をかけてもらっただろうか。彼らの魂の安らからんことを祈る。


7.消えた花嫁の死体

   鄭琛(ていちん)が星子県の県令(県長)だった時に、とても珍しい訴訟事件を処理したことがあった。

星子県のある村人、楊と言う老人は、ながいあいだ子供にめぐまれなかったが、中年になってから、突然、息子が産まれた。夫婦は望外の喜びで、幼い息子のために童養息(トンヤンシー。年上の娘を労働力として買い取り、息子が成人すると嫁にする)をめとった。娘は素直で、やさしい気立てだった。二人が成長し、結婚する年齢になると、楊夫婦は彼らのために結婚式の酒席を設けた。

新婚の夜、若い息子夫婦は手に手を取って部屋に入った。ふたりは非常に喜び、すっかりくつろいでいるようすだった。翌朝、いつまでたっても息子夫婦は起きてこない。昨夜のせいで、新婚夫婦はきっと非常に疲れていると老夫婦は思ったが、声をかけても返事がない。そこで老夫婦は、思いきって部屋に入ってみた。すると、新婦は全裸のままでベッドに横たわって死んでおり、息子はいなくなっているではないか。
老夫婦はすんでのところで気絶するほど驚いた。だがとにかく楊老人は急いですっ裸の嫁の全身を調べてみたが、上から下まで、いささかの傷跡もなかったが、ただ嫁の陰部は、昨夜、処女ではなくなったことを示していた。
そこで楊夫婦は、また家の者にあちこち自分の息子を探させるとともに、嫁の親の家にも死んだことを知らせた。だが、嫁の父はなかなか来ない。
この時節はまさに酷暑のときで、楊老人は、天気がひどく暑いために、死体が腐って臭いが出るのを心配した。そこで死体を納棺して、村外の墓地に埋葬した。
三日後に、ようやく嫁の父が駆けつけてみると、娘の死体はすでに埋葬されている(当時は土葬が一般的)。嫁の父は厳しい声で問いただしたが、楊老人は暑い天候を理由に早く埋葬したと理由を述べた。嫁の父は、思わず疑念を抱き、楊親子が謀って娘を殺し、息子はどこかに隠れ、娘の死体を埋めて証拠を隠滅したのではないかと考えた。
嫁の父は、楊家を出ると、そのまま県の役所に駆け込み、娘の棺桶を開けてみるよう訴え出た。県令の鄭琛(ていちん)はすぐさま役人たちを引き連れて出張り、娘の棺桶を開けてみた。するとなんとしたことか、中に入っていたのは、若い娘ではなく、六七十の老人ではないか。ヒゲも頭髪もまっ白で、背中には斧の傷痕が何カ所かあった。
県令の鄭琛(ていちん)は驚き、これはいったいどうしたことかと楊老人に詰問すると、楊老人もまた呆然として、ぜんぜん知らない人だと答えた。息子はどこにいるのかと聞いても、それもまた知らないと答えた。身体を拷問してみても、なにも知らないと言うばかりである。県令の鄭琛(ていちん)は、やむなく棺桶を埋め戻し、楊老人を収監した。

sinpu
楊老人が牢獄につながれてから一ヶ月あまりして、突然、息子が自首してきた。県令の鄭琛は急いで開廷して、詳しく尋ねた。
息子は自分から話しはじめた。
「あの夜は、なにぶん新婚初夜なので、嫁と何度も楽しんでおりました。それから、あたしが嫁の陰戸(女性の陰部)をくじってやりますと、嫁はひどく身体を震わせて笑いころげました。笑いつづけていたら、突然、動かなくなってしまいました。いくら揺すっても息を吹き返さず、死んでしまったのです。あたしは恐ろしくなり、逃げ出したのでございます。ですが、昨日、隣村で父が牢獄に入れられ罪を負うことになりそうだと聞きまして、自首して父の冤罪を申し述べようと思ったのです」

息子の本業は修髪業(理髪業)であるため、男女のからみ事を知っていた(日本でも特殊浴場と普通の浴場があるように、中国文化圏にも、特殊理髪業と言うようなものがある)。そのやり方が激しい副作用があることは知っていたが、解く方法は知らなかった。そのためどうしようもなくなり逃亡したのだ。
県令の鄭琛(ていちん)は楊老人を釈放し、息子を牢獄に入れた。
嫁の死体がどうして老人の死体に変わったのか。それに死体には傷がある。老人がだれかどうしてもわからない。そこで、県令の鄭琛(ていちん)は人相書きを貼らせ、懸賞金をかけて、老人の死体がだれであるか呼びかけたが、だれも申し出る者がいない。やむを得ず、逮捕期限を延期して、また探すことにした。

楊老人が家に戻ってから一ヵ月ほどすぎたころ、船で建昌に行く用事があった。途中、周渓と言う地を通ったとき、岸辺で洗濯している若い婦人がいる。しだいに船が近づいていくと、息子の嫁にとてもよく似ている。楊老人が驚いて婦人の名を呼ぶと、嫁は頭をもたげて楊老人を見た。嫁はぽかんとしたまま言った。
「義父(おとう)さん!どうしてここへ?」
彼女は楊老人に舟を降りて、家にもどるよう言った。
楊老人はひどく疑って尋ねた。
「おまえは人か、それとも幽霊かい?」
嫁は悲しげに答えた。
「あたしは人です。幽霊ではありません。ともかく家まで来てください。それから詳しくお話しします」
そこで楊老人は接岸して舟を降り、藁葺きの農家のような家に入った。
楊老人はさっそく尋ねた。
「おまえはどうしてここに?」
嫁は話そうとして泣き出し、しばらくしてようやく口を開いた。
「あたしが今日、たまたま川で洗濯して、義父(おとう)さんに会ったのは天の神さまのお考えでしょう。すべてを話せば、たとえ川に身を投げて魚のエサになったとしても、満足です」
嫁は泣きながら話しはじめた。
その夜に、死んだと思われて、自分は急いで埋葬された。だが、本当は、あまりの興奮のために気を失っただけで、まだ息は断ち切れておらず、夜半に息を吹き返したのだ。嫁は夜通し大声で助けを求めていたが、誰も助けに来ない。
夜が明けると、たまたま建昌の寇(こう)と言う、ふたりの大工が墓地を通り過ぎた。ふたりは叔父と甥の間柄である。ふたりは嫁の助けを求める声を聞き、棺おけをこじ開けて、嫁を救い出した。嫁は若く、そのうえ新婚だったため服飾は華麗で、たいへん美しく見えた。甥の大工は嫁を見ると心奪われ、思わず自分の家に連れて帰ろうとした。叔父は反対し、嫁の家を詳しく尋ねて、送り返そうとした。だが、甥はこらえきれず自分のものにしようとした。嫁は許してくれと哀願したので、叔父は甥と争いはじめた。甥はとうとう斧を持ち出して、叔父に一撃を喰らわし、切り殺してしまった。そして、死体を嫁の棺に入れ、再び埋めてから嫁を携えて逃げた。嫁はやむを得ず、甥の大工といっしょに暮らしたのだと説明した。

楊老人はその話しを聞いて、思わず涙を流して言った。
「そんな強暴な男に出会ったとは、おまえはなんと運が悪いのだ!だが、それはおまえの過ちではない。だが、とにかくおまえが帰らなければ、この事件は解決せず、おまえの夫は出獄できない。わしといっしょに早く帰ろう。遅くなれば、よくないことが起きるかも知れん(獄死の意味)」
そこで二人は舟に乗って、郷里に向った。自分たちの村に入ったとき、突然、若者が背中に斧やノコギリを背負い、疲れてゆっくりとこちらに歩いてくるのに出会った。その若者は、嫁を見るとひどく驚き、奪い返そうとした。
嫁は大声で罵った。
「あたしは以前おまえに無理やり奪われたとき、逆らう力がなかった。だけど、今日は天があたしに同情して、おとうさんに会わせてくれた。おまえはもう今日か明日の命なのに、まだあたしに乱暴するつもりなのか?」
楊老人は、この若者が嫁を強奪した人間であると知り、前に出て争った。この時、村人がみな集まってきた。嫁はみんなに向って事の経過を泣きながら訴えたので、みなもひどく憤慨し、楊老人を手伝って若者を縛りあげ、県の役所に突きだした。嫁も証拠に連れていった。
県令の鄭琛(ていちん)は、ただちに息子を牢獄から出し、犯人の若者を逮捕した。こうして事件は落着し、老夫婦と若夫婦の四人はふたたび仲良く暮らしたのだった。

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